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2019年01月25日

【Перевод данных】 Анатомия Армии-1919г.

Просто я думаю - обмундирования РККА классные и стильные!

【Перевод данных】 Анатомия Армии-1919г.
画像はНовости волгограの記事から拝借させて頂きました。

更新日時:2019年1月

★はじめに
こちらでは、ロシア内戦中のРабоче-Крестьянская Красная АрмияことРККА(労農赤軍)の軍服について、自分自身の和訳の練習も兼ねて、忘備録としてご紹介させて頂いています。

キッカケは某歴史ものステルスアクションゲームその関連作品でありましたが、いつの間にか史実の方へ興味津々となってしまいました。

恥ずかしながら、私の知識では記事の信憑性について明言することはできません。
あくまで一つの資料として、ご覧頂ければと思います。

★ソース(Ссылки)
★≪Анатомия Армии≫ Юрий Григорьевич Веремеев (『軍のアナトミー』 ユーリ・グレゴリィヴィチ・ヴェレメーエフ*)
1.Униформа и знаки различия (服装と階級章)
①Должностные знаки различия военнослужащих РККА 1919-21 гг. (1919~1921年における労農赤軍の軍人の公式な階級章)

*Он ушёл из жизни 30 июля 2018 года. Пусть душа покоится с миром. И огромное спасибо за информации.
(著者の方は2018年7月30日に他界されました。ご冥福をお祈り申し上げます。また情報に感謝申し上げます。)



★Должностные знаки различия военнослужащих РККА 1919-21 гг.
(1919~1921年における労農赤軍の軍人の公式な階級章)

1917年の統治における最初の数週間に、ボリシェヴィキ政府は明らかにそして確実に信じていた-達成された社会主義革命は全国民によって無条件に支持され、打倒された搾取階級のわずかな抵抗は赤衛隊(ボリシェヴィキを支持する労働者からなる武装集団)によって簡単に粉砕されるだろう、と。この国の指導者達は、労働者の普遍的な武装による常備軍への置き換えについて、20世紀初頭まで全くもって妄想的なカール・マルクスの論文を頼っていた。彼らはロシア帝国軍(白軍)の撲滅へ積極的に取り組んだ。

特に、1917年12月16日のВЦИК(Всероссийский Центральный Исполнительный Комитет, 全ロシア中央執行委員会)СНК(Совет Народных Комиссаров, ソヴィエト連邦人民委員会議)による "選挙の開始と軍の組織について" および "全軍人の権力の方程式について" の命令では、全ての軍の名称と階級章が撤廃された。
しかし実際、1917年11月には既に、国内におけるボリシェヴィキに対する抵抗が予想より遥かに強く、そして日々増えていることを示していた。
さらに、ドイツ帝国は停戦する気が全くなかった。ドイツ皇帝の軍は、ロシア・ドイツ間の前線での積極的な交戦を控えさせ、ロシア軍の完全な崩壊と、ロシア・ドイツ間の個別の平和という自身にとって有益な結末を待っていた。
1917年11月から1918年1月初頭までの間、ボリシェヴィキは赤衛隊を使用しており、そして奇妙なことに、その時はまだ崩壊していなかった(ドイツの前線における)ロシア帝国の軍服を着たロシア軍の部隊は、階級章を撤廃した。

1918年
1918年1月には、外敵を撃退するための労働者の普遍的な武装というスローガンと、ブルジョアジーの抵抗を抑え込むことは不可能だということが明らかになった。軍事組織が必要だ。
1918年1月15日、ВЦИКとСНКはРабоче-Крестьянская Красная Армия(略称-РККА, 労働者・農民赤軍)の組織に関する法令を発行した。
この法令を実施するための本格的な対策は、1918年2月23日から28日までの "赤軍創設のための赤い週間" から始まった。
レフ・ダヴィーダヴィチ・トロツキー(ブロンシュテイン)が率いるРВСР(Революционный Военный Совет Республики, 共和国革命軍事会議)が創設された。
新生軍の軍服の分野では、 赤軍に参入する全ての人々は被服を、できれば軍用の被服を着用すべきである、と決定した。軍の階級は無く、赤軍では階級章は構想されなかった。
全員に単一の呼び名である "красноармеец(赤軍兵士)" が与えられた。
しかし最初期から明らかになった-赤軍兵士達は、共和国内の全ての市民とは何かしら異なるべきであると。事実、特に都市部における大部分の男性達は、1918年初頭まで軍とは何の関係がないものを含む大量の戦闘服を着用していた。(これらは)貧しさ、あるいは利便性や安さによる。
さらに、同時期に創設された反ボリシェヴィキの武装勢力は、同様の戦闘服を着ていた。

著者から。 ロシア内戦についての多くのソヴィエト映画は、軍服の分野においては真実から程遠い。我々はスクリーン上で、赤軍兵士達が様々なボロボロの服をとても不格好に着ていたのを見る。しかし白軍兵士達は全員、専ら(きちんと)縫製された服を着用し、全員が金の肩章で、そして彼らの軍服は綺麗に体格に合っている。
しかし当時の写真を勉強しながら、移民達の回想録を読んでいると、ある結論に至る-(何かしらの)服を着用している場合、しばしば それらが全く異なることがある、と。赤軍も白軍も、等しく悪いまたは等しく良い服装をしていた。しかも、服装はとても似ていた。
デニーキン将軍はロシアの大動乱に関するエッセイにて-ドンへ退避して義勇軍を編成した後、ビハウでの拘束から脱出する最初の数週間、彼ですら平民のコートを着用した-と書いている。
白軍運動に参加することを決意した兵士達と将校達は、自身の軍事的な真髄を秘めていて、何を身にまとっていたとしても、彼らは最善を尽くしてドンへ向かった。全くもって貧弱な義勇軍は最初の数カ月間、軍服を着た自身の兵を配置できなかった。
明らかに、РВСРの議長であるトロツキーが、少なくともある種類の階級章を赤軍に与える動きを決定させたのは、正にこれらの状況によるものだった。


しばらくの間、赤軍兵士達は胸の赤いリボンと(あるいは)赤い被り物を、または赤い帯を装着し、目立っていた。一方でこれらの階級章は何にも誰にも統制されていない。

最初に正式かつ中心的に導入された赤軍の兵士と将校の階級章は、バッジであると見なされる。どのような文書で、またいつ出現したのか、著者は追求しているが上手くいかなかった。おおよそは-1918年の春頃。このバッジにはいくつか種類があった。赤軍の中央集中的な製造と一部の供給、これらの基準の確立は上手くいかず、材料や資金(しばしば個人的な資金)の有る無しで、可能な限り民間の職人達によりバッジが製作された。このため、このバッジには多くの種類が見られる。ほとんどの場合、将校はバッジを入手した。軍服に関する多くの本では、そうではないにもかかわらず、これらは”赤軍の将校のバッジ”と呼ばれている。
あるいは、そしてとにかく、1918年7月24日の人民委員の軍事部(?)命令第594号で導入された赤軍の最初の階級章は、被り物に五芒星という形態の”帽章バッジ”となった。
様々な地位や階級の指導者の創造の産物と思われるバッジやタブ、徽章に注意を払う価値はない。これらは当時に沢山現れ、とても短い期間に、そしてとても限られた状態で着用されていた。
1918年には、準備作業は広範囲で行われたにも関わらず、これ以上の階級章は受け入れられず、承認されなかった。

【Перевод данных】 Анатомия Армии-1919г.

1919年1月19日のРВСРの命令第116号により、単一の被り物(冬季用として布製の帽子、夏季用として布製の制帽)と、軍服の襟章の色、そして赤軍兵士達の兵科ごとの階級章が制定された。
襟章は平行四辺形の形をしており、寸法は長さ約9cm、幅約3-4cmだった。
襟章の色は次のように規定された:
歩兵-深紅色 *ラズベリー
騎兵-青色 *ブルー
砲兵-橙色 *オレンジ
工兵-黒色 *ブラック
航空隊-空色 *スカイブルー
国境警備隊-緑色 *グリーン

【Перевод данных】 Анатомия Армии-1919г.

この時までに、赤軍の全連隊へ単一の連続した番号の振り当てが制定されている。このため、襟章に連隊の番号を黒い塗料で表記することを規定した。字の高さは約2cmだ。しかしながら、襟章への番号の表記は概ね無視された。

著者から。これらの色付き襟章は、正式な名称はклапан(蓋、弁)であったが、赤軍やその後のソヴィエト軍では(指令書も含めて)常にпетлица(ボタンホール)と呼ばれていた。
петлица-ボタンを留めるための服の切り込みだ。日常生活においては今日、петлицаはпрорезь для пуговицы(ボタンのスロット)と呼ばれている。大昔、かつて、ロシア軍ではこれらのスロット(ボタンホール)は、モール状の縞や帯紐で仕上げられていた。美しさと耐久性のために。それから、どういうわけか分からないが、"петлица(ボタンホール)"という用語はスロットだけでなく、その周辺の装飾も含めるようになった。この装飾そのものは(既に大半が"スロット"を除いて)軍服の他の位置(通常は襟)に移動した。そして、誤った名称の"петлица(ボタンホール)"は、特定の色と形を持つ、特定の装飾品として固定された。


ウールの帽子には、襟章と同じ色の星が縫い付けられていた。星の寸法は-直径約8.8cmの円に収まる。布製の星の中央には、金属製の赤い星の帽章バッジ(星印)が付いている。

兵科ごとの階級章は、三角形(一辺約4cm)、四角形(一辺約3cm)、そして菱形(大きな対角線の長さは約3.5cm、小さい対角線は約3cm)の赤い布で表された。これらは袖(袖口)の上に、黒い糸で縫い付けられた。それらの上には鎌と槌の標章を黒い糸で刺繍した、赤い星が位置していた。
星の寸法は-直径約11cmの円(その軍人が三角形や四角形の章を装着している場合)、もしくは直径約14.5cmの円(軍人が菱形の章を装着している場合)に収まる。

著者から。しかしながら、これらの規定は かなり大まかに守られていた。多くの場合、特に高位の将校は、階級章を黒い糸ではなく金の糸で縫い付けていた。階級章は袖の上に無規則にあった。有名なものでは、例えば第16騎兵師団の将校 Яков Филиппович Балахонов(ヤコヴ・フィリパヴィチ・バラハノフ) の写真で、左袖には星の代わりに、即席の騎兵の徽章の下にначдив(師団長?)の菱形の章を2つ縫い付けており、また襟章(階級章)自体は肘の上に縫い付けている。

階級ごとの階級章の一覧:
赤軍兵士-無し
分隊長-三角形の章1つ *▲
小隊補佐-三角形の章2つ *▲▲
小隊(大隊、中隊または戦隊)の下士官-三角形の章3つ *▲▲▲
小隊長-四角形の章1つ *■
中隊(戦隊)補佐-四角形の章1つ *■
中隊長(戦隊長)-四角形の章2つ *■■
副大隊長-四角形の章2つ *■■
大隊長-四角形の章3つ *■■■
連隊長-四角形の章4つ *■■■■
旅団長-菱形の章1つ *♦
師団長-菱形の章2つ *♦♦
軍団長-菱形の章2つ *♦♦
軍の指揮官-菱形の章3つ *♦♦♦
戦線の指揮官-菱形の章4つ *♦♦♦♦

【Перевод данных】 Анатомия Армии-1919г.

残りの軍人達は、兵科の規定に基づいてほとんど等しく階級章を付けていた。正確には規制は無かった。例えば、連隊補佐は通常、連隊長より四角形の章が1つ少なかった。しかし規定によっては、補佐は彼らの隊長・指揮官と同じ階級章を付けていた。
星と階級章を縫うべき黒い糸と、星の上にある黒い鎌と槌は、至るところで拒絶が引き起こされ、これらの黒い糸は通常、金色か黄色の絹糸へ変更された。また階級章はほとんどの場合、赤い糸で縫い付けられた。

襟章・階級章は一元的に供給されなかったため、それらの深紅色の布の代わりに赤または赤に近い色(明るい赤、バーガンディ、マルーンまで)の、様々な赤い素材(絹、茜木綿、本繻子・サテン、更紗・チンツ)が使用された。色付きの絹糸で刺繍されている階級章も見られた。

この時に赤軍を統制していた低い規律は、制定された襟章・階級章の様々な種類を生み出した。例えば、РВСРの議長であるレフ・トロツキー自身、彼の袖には金色の刺繍が入った水平な菱形の章を何も装着していなかった。
Дерябин(デリャービン)とПаласиос-Фернандес(パラシオス・フェルナンデス)の"Красная Армия(赤軍)"という本にある写真は、袖の上に星がない、白い糸で縁取りされた3つの四角形の章(大隊長)を装着した通信兵が掲載されている。

1919年4月8日、РВСРの命令第628号により、赤軍に最初の規定された軍服・諸物が導入された-歩兵用と騎兵用のシネーリ(オーバーコート、カフタン)、夏季用ルバーハ(シャツ)、そして革靴。

シネーリの襟、袖口、そしてポケットのスリットは、シネーリ自体よりも濃い色の布地で縫い覆われている。
1919年1月19日のРВСРの命令第116号により制定された兵科色に合わせて、菱形の縞模様(петлица、ボタンホール)が縫い付けられている。
петлица(ボタンホール)の2つの底辺の長さは約6cmだ。角から角までの水平な間隔は約7cmだ。
襟の先端部には徽章として、同色のパイピングがある。袖口の上端部にも同じパイピングがある。襟章には連隊の番号が黒い塗料で表記される。
階級章は依然として袖口より上の袖にある。
シネーリは、上部に縫い付けられた徽章と同じ色のストラップを使って固定される。ストラップの寸法は-長さ約11cm、幅は最も狭い部分で約2.5cm、広い部分で3.5cmだ。
(ソースページでは右にある)画像では:軍服は砲兵色(橙色)のボタンホールとスリット(およびパイピング)となっている。

【Перевод данных】 Анатомия Армии-1919г.

ルバーハには、兵科色に従った色の4つの装飾バーが縫い付けられた。これらは襟の上に1組、胸の上に3組ある。各装飾バーの長さは約8cmで、幅は狭い部分で約2.5cm、広い部分で約4cmだ。
いずれの装飾バーにも数字は与えられていない(シネーリとは異なっている)。
階級章は依然として袖口より上の袖にある。

著者から。興味深いことに、命令はシネーリやルバーハをどのように装着するか規定していない。当時の写真から、将校達はしばしば帝国軍の将校用の装具か、カフカースのバンドのどちらかを装着していた、という結論に至ることができる。一般兵達は通常、シンプルなベルトを装着していた。続いて写真からは、かなり頻繁にシネーリの襟章に番号が表記されていた。そして時々これらは塗料ではなく、糸で刺繍されているか、金属製の番号バッジと古き軍の肩章が使われていた。

РВСРの命令では、行軍中に色付きの徽章、ストラップ、装飾バーを、(命令第116号で制定された)軍服の色付きの徽章、ストラップ、装飾バーへ交換する必要がある、とも規定していた。
一方で、これらは普遍的に実施されたわけではなかった。またほとんどの場合、シネーリの襟と袖は濃い色の布地では無く、シネーリの基本的な色の布地で縫製されていた。

1920年
1920年4月3日、РВСРの命令第572号により、諸兵科の袖章が導入された。布製の袖章には、兵科のエンブレムが絹糸で刺繍されていた。歩兵科には深紅色、騎兵科には青色、砲兵科には橙色、工兵科には黒色、航空隊には空色の袖章が与えられた。
袖章の寸法は、約10cm x 6cmの長方形に収める必要がある。
袖章は左袖の肩と肘の間に装着される。赤旗勲章が授与された連隊には、通常の絹糸ではなく金色の糸で刺繍された。
最低でも1年間 赤軍に従事し、同時に戦闘へ参加し、それだけでなく戦闘で負傷した将兵は、銀色の糸で刺繍された袖章を装着していた。

【Перевод данных】 Анатомия Армии-1919г.

1921年には、軍服や徽章のいずれにも変化が見られなかった。1919~1921年に制定された軍服の統一と規定の厳守は尊重されていなかった、ということに注意すべきである。この期間中は多くの逸脱が確認されているが、一般的には、また可能な場合は、そして十分に統制されている部隊では、これらの規定は多かれ少なかれ尊守されていた。

P.S. 私はРВСРによって承認され公式とされた、1918~1921年の赤軍の階級章のみ説明した。戦線、軍、軍団、そして師団の指揮官達は、自分達がモスクワから完全に独立していると考え、そして軍服に関して、彼ら自身で役割や階級章を示す権利があると考えていた。そして同志トロツキー自身も、この問題の一例であった。多くの資料では、彼が彼自身の個人的な護衛のために、かなり特殊なモデル(金色の縞模様のある赤軍軽騎兵のレギンス、銀色のパイピングを使った特別な縞模様のある青い上衣)を導入したと説明されている。
実際の軍服や階級章の全種類を記載することは、全くもって不可能だ。一人のコレクターは赤軍兵士の金属製バッジを30個以下ほど持っている。だが、これらが全てでないことは明らかである。



Источники и литература(出典と文献) ※資料名のため未翻訳です。

1. Декрет ВЦИК и СНК "О выборном начале и организации власти в армии" от 16 декабря 1917 года.
2. Декрет ВЦИК и СНК "Об уравнении в правах всех военнослужащих" от 16 декабря 1917 года.
3. Декрет ВЦИК и СНК "О создании Рабоче-Крестьянской Красной армии" от 15 января 1918 года.
4. Приказ РВСР № 116 от 16.01.1919г.
5. Приказ РВСР № 1406 от 22.08.1919г.
6. А.Дерябин и Р.Паласиос-Фернандес. Гражданская война в России 1917-1922. Красная Армия. Издательство Акт. 1998г.
7. К.К.Рокоссовский. Солдатский долг. Москва. Военное издательство 1988г.
8. Г.К. Жуков. Воспоминания и размышления. АПН. 1987г.
9. О.В. Харитонов. Иллюстрированное описание обмундирования и знаков различия Красной и Советской Армии (1918-1945гг.). Артиллерийский исторический музей Главного Артиллерийского Управления министерства обороны СССР. 1960г.
10. Краснознаменный Уральский. История Краснознаменного Уральского военного округа. Москва. Военное издательство 1983г.
11. М.М.Хренов и др. Военная одежда Вооруженных Сил СССР и России (1917-1990-е годы. Военное издательство. Москва. 1999г.



※日本語翻訳部分は完璧ではありません。
 初歩的な格変化・格支配を基に、和露・露和辞書サイト等を使用しています。
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タグ :РККА

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